その日一日を精一杯生きる
キリスト教系の学校で、中学、高校時代を過ごした。
聖書の一節に、「その日の苦労はその日だけでよい だから先のことを
思い悩むな」ということばがある(ところどころ表現は違っていたと思うが)。
最近、この言葉の意味が少しわかって、心の支えになっている。
先の予定をたくさん入れて、先のことばかり考えると、余計にあせる。
本当は今この瞬間瞬間こそがもう戻って来ない時間。
まずはその日その日を一生懸命、自分の出来る範囲で頑張ろう。
この考え方は、見返りを期待しない、人に期待しない思考とも近いものだと個人的には思う。
今、少なくともその日一日を、自分の出来うる限り一生懸命頑張ろう。
仕事、そして日々の何気ない生活そのものを。
別に見返りを期待してするのではなく、将来こうしていれば希望が叶う、
と思うのではなく、ただ、毎日を、そのまま受け入れて、自分の足で歩いていくこと。簡単なようで、難しいことだ。
先のことはひとまず置いておいて、一日一日を精一杯生きる生活を、
この1年、続けてみたいのだ。
不安と焦りと墓穴と恥
心がみえない。わからない。
不安になる。
どうして?何故?私が何かしたの?また苦しめられるの?
信じていいの?
不安が焦りをよんで、焦りが不安を濃くする。
それで、感情的になって、もっと不安になって、焦って。
悪循環。
余計なこと言って、墓穴を掘る。
一人相撲。最後には恥ずかしくて消えたくなる。
今日も苦しい。。
一般的な考え方と自分の心
「普通は○○だ」ということ、山ほどある。
そういう考えもわかるし、たいていは一番理屈が通っているのが「普通」の考え方。
「普通」にあこがれて、「普通」の仲間入りをしたくて頑張って無理だと結論づけた大学の頃。
社会人になっても、「普通」への憧れは、大分諦めたけどそれでも少しはあった。
「普通」に憧れる、というより、「普通」から外れている自分に劣等感しか
感じられず、苦しい日々が続いた。
今もまだ、「普通」にどこか拘る自分が時々顔を覗かせて、「自分は自分の
ペースで進むしかない」と思う自分の邪魔をしようとする。
もうこれまで数え切れないくらい、「普通」でなくていい、
「普通」と較べても自分は自分、と思ってきたはずなのに、
まだ苦しい。
手探りの日々
すぐに結果が出たらどんなに楽だろう。
けれど、そんな物事はほとんどない。
わかっているのに、途中の過程をすっ飛ばして、結果だけ、
それも良い結果だけ得たくなる。
そう少しでも思うと、無意識に心が焦っているとき。
どうしたら、いつになったら前に進めるんだろう。
前に進まなくちゃ。
半ば脅迫心から自分を何とか動かそうとする日々。
手探りでケガもいっぱい。
抜け出したい。抜け出す方法さえわかれば。
あせるあせる。苦しい。
その悪循環。
湧いてくる高揚感と裏腹の恐怖
前に進むことは、新しい世界に踏み出すこと。
そこには、ワクワクする気持ちもあるのだけれど、
不安、恐怖も同じくらい。
自分を解放→執着心の手放し→新しい選択、のプロセスをゆっくりでいいから、段階的に踏んでいくことがとても大切、と心理学講座で読んだ。
10年前は、この自分を解放→執着心の手放し、のプロセスすら知らず、
自分をずーっと数年に渡って殻の中に閉じ込めて、余計に自分を追い詰めていた。
その失敗があるから、今回は、どんなに苦しくても自分をどんどん解放して、
受容して、心にある執着心…つまりは不安やおそれの感情を手放していきたい。
今はそこに集中しよう。
自ずと新しい選択を自分らしく、自然にできるようになる気がする。
泣きすぎて頭が痛い
苦しい、苦しい、苦しい…。。
心が迷子になって苦しい。。
大好きなのは今もそう。元に戻れたらどんなにいいだろう。
あああの日に戻れたら。あんなことしなければ。
あのときぶつかりあってでも向き合っていれば。
未練、後悔、…執着心てとても強いパワーがある。
前を向こうとするからだを覆いつくすようなパワーが。
昨日はそれがあまりにも、本当にどうしようもないくらい苦しくて、
思わず感情の全部を吐き出してしまった。
心が迷子で、前に進めない。
それはこんなにも苦しい。
これからも周期的なのか、たまたまなのか、
多分まったく同じ思いに舞い戻ったら
今度はどうしたらいいんだろう
わからない。
私は不器用だ。だからこうやって苦しみながらも、
生きていくしかない。自分の寿命がくるまで。
あー、苦しいね。