二つの相反する気持ち
よく、「自分の心に正直になって、その思いのとおり進んでみよう」というアドバイスが心理学系の本に書かれている。
私の場合、自分の心に正直になることそのものが、そもそも結構タイヘンだった。
幼少期、小説家になりたいと思っていた私は、小学校低学年の頃から既に学校教育の意味がよくわからず、授業中に自分の読みたい本を読んでいるような子供だった。
当然、小学校低学年で内職している子供なんて皆無なわけで、問題児として教師に記憶され、そこでとどまらず保護者(母親)に連絡が行った。
もちろん、母親には、授業中に関係ない本を読むとは何事だ、とみっちり叱られ、こっそり書いていた小説を目の前で破り捨てられたときに、
そうか、自分が正直にやりたいことをやると怒られるわけか、
と悟った。
母親は、私に「人並みの」「ふつうの」賢い子供であることを強要した。
私がちっとも興味のない「女の子らしい」習い事に通わせ、
放課後、ひとりで図書館に籠って本を読むことを禁じ、
対して仲良くない同級生に合わせて遊ぶことを好ましいと思っているようだった。
要は、協調性がなく、このころからやや兆候があったであろう、私の自閉症傾向に
ふたをしたかった(自分の責任ではない、やることはやってやった的な)のではないかと思う。
母親の気持ちはわかる。子育ては、どんな些細なことで、子供に一生続くかもしれない影響を与えるかもしれない危険性が常にある。
母親と自分の関係を考えると、私は子供を持ちたいなんて真っ平だし、
「自分の子供が欲しい」と太陽の下でいえる、明るい道を生きてきた人々のため、
その人たちの邪魔にならないように、せめて税金でも払って世の中に置いてもらえればそれで充分だ。
過去語りが長くなったが、子供のころ、唯一、「正直」になれたことを真っ向から否定されて年を取ったら、自分に正直になるのが難しいのですよ。
「○○したい」⇔「でもそうすると××になるかも」
正直と理性が妥協の仕方を知らずに暴れまわり、本体(私)が
「あーめんどくさい、だったらもう何もかもどうでもいいや」
と極端思考(白黒つけたがる)で解決しようとする。
で、解決できないから、堂々巡りの正直と理性が闘って、
本体が疲れて無気力になる。
GW早々こんな記事かいてるあたりがすでにそうなんですけどね。
何がいいたいかというと、正直と理性の妥協点を、健全に育った人のように見いだせず、不器用な生き方をしていて苦しいということです。