前に進めたと思えるまで続けるブログ

2017年2月から、前に進むために七転八倒、試行錯誤。前に進める日まで書き続ける記録

手探りで歩く

私は目が悪い。裸眼視力だと、0.1はゆうに見えない。

そのため、メガネ・コンタクトが手放せない生活を中学生以来続けてきている。

 

夜中にトイレに行くとき。めんどくさいので、メガネはつけない。

電気もつけない。

暗闇の中、手探りでトイレまでたどりつく。

そこには慣れがあるので、見えないモヤモヤ感はあれど、怖さはない。

 

けれど、人生は手探りだ。暗闇には、怖さがいっぱいだ。

「メガネ」をかけたり、「コンタクト」を使ったり、

いろいろな方法で、暗闇を抜け出そうともがいて、

その方法を手探りで探る毎日。

 

変らない状態には、満足感・幸せは薄れいつしか不満を覚えてしまうのに、

それでいて変ることは怖くて仕方ない。

 

人間は未知のものに対して、潜在的な恐怖を覚えるという。

変ることはある種の恐怖なのだろう。

 

今、変ることに強い恐怖を覚えながらも、変りたいという思いが

これまでにないぐらい強くなった。

 

だから、真っ暗闇の中、毎日手探り。

 

いい求人があった。応募しよう。

少し気分が明るい。

この道でいいのかな

「直感に従おう」とよくいわれるけれど、

それでもいつも思うのが、「この選択でいいのかな、ということ。

 

好きとか嫌いとか、楽しいとか苦手とか、直感はそれぞれ。

好きなこと、興味の向くことを選ぼうと思うと、

今度は途方もない、「本当にこれで私は好きなのかな、心から楽しいのかな」

という迷いがいっぱい出てくる。

 

それを振り切るだけの強い思いも勇気もないから

自分の判断にぶれがあるから

迷いが取れない

 

そうだ、「その日の苦労はその日だけでよい」

つまり、今日のことだけまずは一生懸命考えよう。

じっと受身で

四柱推命でいうと、私、2016年、2017年は天中殺らしい。

 

転職や転居など、新しいことを始めるのには向かない年、

受身でいなさい、とか。

 

でもね、前に進みたいから。今日は動けるな、と思った日に動いていいよね?

 

確かに独りぼっちだけど。それでも、自分のことは自分で決めて、

幸せになっていくのは自分次第。

 

今日は動こう。

その日一日を精一杯生きる

キリスト教系の学校で、中学、高校時代を過ごした。

聖書の一節に、「その日の苦労はその日だけでよい だから先のことを

思い悩むな」ということばがある(ところどころ表現は違っていたと思うが)。

 

最近、この言葉の意味が少しわかって、心の支えになっている。

先の予定をたくさん入れて、先のことばかり考えると、余計にあせる。

本当は今この瞬間瞬間こそがもう戻って来ない時間。

まずはその日その日を一生懸命、自分の出来る範囲で頑張ろう。

 

この考え方は、見返りを期待しない、人に期待しない思考とも近いものだと個人的には思う。

 

今、少なくともその日一日を、自分の出来うる限り一生懸命頑張ろう。

仕事、そして日々の何気ない生活そのものを。

 

別に見返りを期待してするのではなく、将来こうしていれば希望が叶う、

と思うのではなく、ただ、毎日を、そのまま受け入れて、自分の足で歩いていくこと。簡単なようで、難しいことだ。

 

先のことはひとまず置いておいて、一日一日を精一杯生きる生活を、

この1年、続けてみたいのだ。

不安と焦りと墓穴と恥

心がみえない。わからない。

不安になる。

どうして?何故?私が何かしたの?また苦しめられるの?

信じていいの?

不安が焦りをよんで、焦りが不安を濃くする。

 

それで、感情的になって、もっと不安になって、焦って。

悪循環。

 

余計なこと言って、墓穴を掘る。

一人相撲。最後には恥ずかしくて消えたくなる。

 

今日も苦しい。。

わからない

「家族並みに信用できるのは君だけだ」といわれても

一度徹底的に試されてとても傷ついて

いきなり元に戻るなんてもっと苦しい

 

どうしていいかわからない。

 

好きだけど、前みたいな関係には戻れないし、

前みたいな関係に戻りたいとも思わない。

 

自分の心は自分で守るしかない。

 

仏教の思想、己は「空」である。

だから、現世で起きていることの全ては必然だけど、悲観することはない。

 

今度は自分を守ろう。

自分が前に進むため。

一般的な考え方と自分の心

「普通は○○だ」ということ、山ほどある。

 

そういう考えもわかるし、たいていは一番理屈が通っているのが「普通」の考え方。

 

「普通」にあこがれて、「普通」の仲間入りをしたくて頑張って無理だと結論づけた大学の頃。

社会人になっても、「普通」への憧れは、大分諦めたけどそれでも少しはあった。

 

「普通」に憧れる、というより、「普通」から外れている自分に劣等感しか

感じられず、苦しい日々が続いた。

 

今もまだ、「普通」にどこか拘る自分が時々顔を覗かせて、「自分は自分の

ペースで進むしかない」と思う自分の邪魔をしようとする。

 

もうこれまで数え切れないくらい、「普通」でなくていい、

「普通」と較べても自分は自分、と思ってきたはずなのに、

まだ苦しい。